最新スピリチュアリズムの記事一覧

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10/03

僕の両親は昔、僅か20才と19才という若さで生まれたばかりの
僕を育てながら食堂と下宿を経営していました。
まだ若かったという事もあったと思いますが短気で喧嘩っ早い父。
喧嘩で刑務所に入った経験もあります。渓流釣りが趣味で釣り
ばかりしてあまり遊んでもらった記憶がありません。
母は言葉は悪いですがアバズレ女という感じであまり常識のある
人ではありませんでした。丁度僕が小学校にあがる頃
夫婦仲が悪くなりました。

母はいつの日か飲み歩くようになり、酔っ払って帰ってきては
いつも毒を付くというありさまでした。そのうち母は何度も家を
飛び出しいつも行方不明になりました。見つかって家に戻っても
また家出を繰り返すのでした。

僕はまだ母親の愛情が必要な年齢だったので当時はとても寂しい思い
をしました。いつも見送ってくれる人も無く学校に行く足も重かった。
参観日や行事には自分だけ誰も来ない。運動会の練習の時は何度も
涙がこぼれました。

その頃の忘れられない思い出として父が夕飯を運んできてくれた
時の事。父は手を滑らせて味噌汁のお椀を倒してしまいました。
その時父はテーブルを思いっきり叩き怒鳴り声をあげました。
子供ながらに父の辛い気持ちが心に突き刺さった出来事でした。

もう一つ母に土下座をして帰ってきてくれと頼む姿。
あの短気な父がです。それは僕や弟の寂しそうな日常を見かねての
行動だったのか、幸せな家庭を取り戻したいという強い願いだった
のか。その思い出は今でも僕の心に深く刻まれていて僕ら夫婦の
何度かあったもうダメかと思うほどの危機的な時期を乗り越えてきた
支えというか力になりました。最後まであきらずに頑張ってきて
今の僕の家族の幸せがあるのは父が見せてくれた生き様のお蔭です。

ある日、母は知人にある信仰宗教に誘われ通うようになりました。
そこで法華経というお釈迦様の説いた教えを学ぶようになりました。
ほどなく父もそこに通うようになりました。母はそんな器も無いのに
役をつけられ色々な悩みや苦しみを抱えて訪れる人の為に力になる
ため努力するようになりました。父も法華経の教えに魅せられ色々な
人の為に自分を役立てる人生を歩み始めました。

来る日も来る日も父と母は自らの幸せなど考える暇も無く人の為に
力を注いできました。そして父と母は変わりました。
家庭も円満になりました。今は信仰は引退していますが今では息子
である僕も一目おくほどの人格者です。

ここで一つ知ってほしい事があります。父と母はなぜ変わったのか。
そして幸せな人生を歩めるようになったのか。

それはけして特定の信仰宗教に入信したからでは無いという事。
それはただのキッカケで自分の生活も顧みず多くの悩みや苦しみを
抱える人の為に自分を役立てて来た結果なのです。人間は我を忘れ
人の為に自分を役立てれば役立てるほど人間性が磨かれていきます。
スピリチュアルな専門用語で言うと霊性が磨かれていくという事。
そしてその行いがめぐり巡って自分の所へ幸せとして帰ってくる
のです。実はこれは自然の摂理(法則)の一つです。

もう一つ、どんな宗教ももとは自然の摂理(法則)がもとになって
いてそこに人間的なものが付加されたものが宗教。だから教えの中
にズレや間違い、自然の摂理とは関係ないものも存在していて
盲目的な信仰になると色々な問題がおきてくる事が多い。
だから信仰を持つ人に求められるのは何でも頭から信じるのではなく
自らの道義心に照らし合わせ自分が正しいと思う事を信じる事が
大切なのです。

両親が幸せになれたのは自らがやっていた法華経にも純粋な
自然の摂理(法則)が多く存在しており、それに調和した生き方を
してきた結果だとも言えるでしょう。

僕の人生哲学であるスピリチュアリズムとも共通した教えもあります
がズレもありますので両親と議論すると噛み合わない部分もあり
ケンカになる事もあります(笑)それでも僕は人の為に努力してきた
両親が誇りであり尊敬しています。両親も僕の今の活動を言葉では
語らずともリスペクトしてくれているよう。

実は僕の父親は人生で三度、難病や病気になった事があります。
最初は若い頃、甲状腺の病気で体の自由がきかなくなる難病になり
治らないと言われていましたが、克服した経験があります。
もう一つは頭蓋骨と脳の間に血がたまる病気になり、後遺症や
死んでもおかしくない状況だったのに手術で奇跡的に回復しました。

3つ目は現在で後で書きますが父がこれほどまでいくつもの難病に
かからなければならなかったのか?
そして何故、奇跡的とも言える回復が出来たのか?

父は若い頃から悪い事もそれないりにしてきたし、釣りと魚のはく製
作りが趣味でたくさんの魚の命を奪ってきました。たぶんそれが
自らに帰ってきているのだと僕は思っています。

僕も父の影響で若い頃釣りが趣味の時期がありましたが
今は辞めました。それはスピリチュアリズム(自然の法則)を学ぶよ
うになり、それがどういう事なのかを知ったからです。

頑固な父ですから、やめろと言ってもやめる人ではありません。
持ち帰って食べてるんだからいいだろうと言います。

じゃあ漁師はどうなの?と思う人もいると思いますが、ポイントは
「動機」なのです。漁師は生活する為、生きる為に必要な仕事として
魚を取り、そして我々消費者は魚の命を頂いている訳です。
でも釣りはいくら食べると言っても動機が趣味であり、釣ることが
動機でここに大きな違いが生まれるのです。趣味の為に魚に痛い
思いをさせ、命を奪う事は良い事ではないと言う事です。

釣りの趣味の方も多いと思いますがスピリチュアリストとして
アドバイスさせて頂ければ出来ればしない事にこした事はありませんが
自分も経験者ですから釣り好きの気持ちは良くわかります。
魚はリリースが基本。日常をより豊かで楽しく過ごす為に釣りという
趣味を通して魚達に少し痛い思いをさせてしまっているという事を
忘れず感謝の気持ちを持ちましょう。そして意識して人の為に
世の中の為に自分の出来る事で自らを役立てる事。

そして、父の病気になってまで自らに強く帰ってくる原因はもう
一つあります。それは父が法華経を学び自然の摂理に精通した人間
であるという事。知識には責任が伴うのです。自然の摂理を熟知する者
は調和した生き方さえ出来ればその恩恵にあずかる事が出来る反面
逆行した生き方には知らない人の何倍もの罪の代償として自分に
帰ってくるものなのです。

だから僕も悪い事は出来ません。石ころをけっただけでも
上から大きなたらいが落ちてきて「痛って~~!!!」という
イメージでしょうか(笑)僕もたまには頭に血が上って心無い事を
してしまう事もあります。そんな時即座に何倍にも増幅されて
自分に帰ってきます。そこで反省する訳です。
「あーそうか・・・未熟だったなあ、でも痛すぎ><」ってね(笑)

話を父に戻します。では何故、父は難病を2度も克服できたのか。
それは父が歩んできた人生、悩みや苦しみを抱えた人の為に自らの事も
忘れ必死に力になってきた事が難病の克服として自らに帰ってきたと
言えるのではないかと思います。

父は現在、3度目の難病「後縦靭帯骨化症」という脊柱の後縦靭帯が
骨化し増大し脊髄の入っている脊柱管が狭くなり、神経根が圧迫されて
知覚障害や運動障害等の神経障害を引き起こす病気です。もうかなり
進行していて普通に生活できている事が奇跡なのだそうだ。10月に手術
を予定していますが脊髄という神経の集まるデリケートな場所の手術の
為、札幌からその手術の権威に帯広に来て頂き手術します。
それでも難しい手術で手術後、首が動かせなくなったりマヒなどの
後遺症が残る確率も高いとのこと。

何とか完治してほしい所です。しかし自然の摂理(法則)は絶対です。
そこに恩赦というものはありません。良くも悪くも自身の生き方が
帰ってくるもの。今の自分は過去の自分の生き方の結果であり
将来の自分は今の生き方次第なのです。



07/11

feather
僕には飲食店経営者としての顔ともう一つ違う顔があります。
僕の名刺の裏にもう一つの肩書きがあるのを見た事がある人も
いるともいますが

もう一つの顔それは「スピリチュアリスト」

スピリチュアリストとはスピリチュアリズムという人生哲学
を深く理解しそれを人の為に役立てる人の事を言います。
スピリチュアルというと占いとか宗教とか霊視とか
一緒くたにして偏見を抱く人がいますが、僕のはあくまで
スピリチュアリズムで簡単に言うと大自然の法則の事を言います。

よく霊能力者と間違われますが霊能力者=スピリチュアリスト
ではありません。もちろん霊能力者でもスピリチュアリストの人
はいますしスピリチュアリズムを全く理解できていない霊能力者
も存在します。

万物はすべて大自然の法則の上に存在しています。皆さんも
自然界の営みに誰が考えたものでもないのに生命はお互いが調和
しあい見事な法則の上に成り立っていると感じた事はありませんか?

代表的な大自然の法則をあげますと
「自ら蒔いた種は自らが刈り取らなければならない」という法則。
あなたの行動は良い事も悪い事も必ず自分の所に帰ってきますよ
という法則です。これを原因と結果の法則、または因果律という
言い方もします。

法則には目に見える法則もあれば目に見えずともれっきと存在している
法則があり、この法則は絶対です。恩赦などなく数学的正確さで必ず
働きます。

もう一つ「類は友を呼ぶ」という法則。あなたをとりまく縁はあなた
自身の心の波長が影響し縁になったり疎遠になったりしているという
法則です。どんなに嫌な相手と縁になってもそれは必ずあなたの心と
同じものを内在している相手だという事。波長の法則とも言います。

僕のスピリチュアリズムとの出会いは、若い頃色んな失敗や挫折
理不尽な事やとんだ災難や事故などを経験し、何でこんな運が悪いんだろう
とか人生って辛いんだろうと苦しんだのが始まりでした。あとは現代の宗教
への疑問や不信感。

その答えをくれたのがスピリチュアリズム。すべては自然の法則に調和した
生き方をするか逆行するか。ただそれだけの事だったのです。

独学で書籍で学び、自らの人生経験の中から体現したものを哲学として
いつの日か様々な悩みを持つ人の相談やカウンセリングを
するようになりました。

僕のスピリチュアリストとしての仕事(ボランティア)は基本的にどんな
悩みにでも相談を受けますが、家庭内の悩みや病気の悩み、特に精神疾患の
悩みに多く関わっています。また信仰を持っている人にその教えの何が正しく
何が間違いなのかを教えてあげるのも仕事の一つです。僕に出来る事は
自然の法則を教えてあげる事。その人の人生での出来事にどんな法則が
影響しているのかを教えてあげる事です。

よくそんな人の苦労まで背負うなんて信じられないと言われる事があります。
でもそれってちょっと違ってて、その人の苦労や悩みはその人自身が
乗り越えなくちゃいけないもので、何人たりとも他人の人生を肩代わりなど
出来きません。それがその人の人生での課題でもあるのです。
僕はただ道しるべとほんの少し肩を貸してあげるだけ。あとはその人が
どれだけ自然の法則を理解し調和した生き方が出来るか
またその人の努力や頑張り次第なのです。すべては責任主体だという事。

けして信じていれば救われるといったものではなく、あなた自身があなたの
意思で道を選び自らの意思で行動する事が大事。その中で良い事も悪い事も
失敗も成功もすべて学びです。経験を通して法則から学ぶと言う事です。

僕は相談者が誰であれ自分を頼りにしてくれる限り、絶対に見捨てません。
それでは相手を甘えさせるだけではと思われるかもしれませんが
僕はけして優しい言葉や慰めの言葉をかけるだけではなく、とくに
「甘ったれ」には容赦なく厳しい言葉もかけます。ですから依存心の強い人
にはその言葉と向き合う事が出来ずに離れる人もいます。でもその人が
自分の力で成長し、何かを克服出来た時にはまた暖かく迎えてあげます。
だからよく間接的に相談にのっていた人にある時、会う事があるともっと
コワイ人かと思ったとよく言われます (^^;

スピリチュアリズムは学ぶ事も大切ですがもっと大切な事は普段の
人生経験の中で悩み苦しみ失敗の中で体現し、自分自身の中で
確信を得る事です。

スピリチュアリズム(自然の法則)を知ると言う事は人生の裏に存在する
目的を知る事であり、なぜ生まれ何の為に生きるのかを知ると言う事。

人生での様々な恐怖心は先が見えない事による不安です。
スピリチュアリズムは理解する度に様々な恐れを無くし心の平静を
失わなくなります。それは物事の意味が理解出来るように
なるからなのです。

以前少しの間ですが勉強の為に江原啓之さんがやっているサポーターズクラブ
と言うスピリチュアリズムを学ぶ勉強会のようなものに参加していた事が
ありました。そこで毎月、自分の学びや成長、出来事などを発表する機会が
あるのですがそこで何万人もいる会員がいる中で2ヶ月連続で賞を頂いた事
がありました。

写真がその時に江原さんから頂いた記念品です。江原さんから直接メッセージ
も頂きました。ただのバッチですがそれが自分自身の自信もつながっています
しきっと僕のような者に頂けたのは「目に見えない存在」からの今の僕の活動
に対しての後押しのように僕には感じました。時には失敗や挫折もありますが
そんな時、いつもこのバッチを見て心を新たにし、また頑張れます。

これからも微力ながら人の為に自分を役立てる人生を生きていきたいと
思っています。そして一人でも多くの人が幸せな人生を送れますように
力になっていきたいと思います。

05/31

みなさんの中にもどうも親と折り合いが悪いと言う人がいるのではないでしょうか。
私の友達の中にも例えば一緒に商売をやりながら、性格が合わず毎日葛藤やストレス
をかかえている友達や過去のしがらみから親と絶縁状態の友達もいます。

私は両親との確執はありませんが、普段滅多に心の平静を乱さない自分を唯一乱して
くれるのが父親です。人間的に尊敬できる父親ですが、人並み外れた頑固さと
親としてのプライド。絶対に非を認める事のない性格が時に私の心の波長を乱します。

若い頃ほど衝突する事はなくなりましたが、今でもまれに衝突する事があります。
でも今は我ながら良い親を選んで生まれて来たとつくづく思います。というのは

どんなに嫌いな親でも葛藤を抱える親でも子供は親を選んで生まれてくるのです。
これを親と折り合いの合わない人に言うと「ありえない」と言います(笑)

そう思うのは当然でしょう。しかし、事実であり、これも自然の摂理の一つです。
ですから、どんなに嫌いな親でも恨んだり、境遇を悲観してはいけません。
あなたが望んで生まれて来たのです。

何故かという前にこの世に生まれてくる目的を知る必要があります。人はこの現世
に自らの魂を磨く為に生まれてきます。言い方を変えれば人間性を磨くために
生まれてくるのです。言わば、この世をその修行の場とする為です。

自分を磨くためには負荷が必要。何の苦労もない生活。なんの葛藤もない人間関係では
修行になりません。だからあえて葛藤を覚えるような親を選んで生まれてくるのです。

ですから、親への葛藤が強ければ強いほどその人は大きな志を持って生まれて来た
人であるという事が言えます。そういう親と喜怒哀楽を共にし、自らの人間性(霊性)を
磨く事がその人の人生での目的の一つであるということです。

また、親とは友達のような親和性が芽生えない事が多いものです。それは親と子供は魂の
上では遠い存在である事が多い為です。現世の家族という一見深い絆があるような所へ
生まれる為、そこにお互いの依存心が表れます。しかし魂の上では遠い存在であるため
そこに様々な葛藤が生まれるのです。

依存心と依存心のぶつかり合いの中でお互いが本当の意味で自立でき、お互いを
理解し、愛せるようになる為の現世でのパートナー。それが家族です。


02/09

誰もが一度は人を恨んだり、憎んだりしたことあるのではないかと思います。
私だってあります。子供の頃だったら、いじめられた時や悪口を言われた時など
青年時代だったら、陰口を言われたり、ひいきされた時など。大人になってからは
理不尽な思いをした時や騙された時など。

でも、そういう経験の中から皆、痛みを知り、優しさや思いやりを学んで行きます。
そうやって一人前の大人へと成長していきます。

私自身は今は人を恨む事は殆どありません。それは人を憎んだり恨んだりする事の
恐ろしさを学び、そして経験の中からそれを目の当たりに見てきたからです。

人を恨む、憎むという行為はの反対の行為と考えて間違いないと思います。
愛は自然の摂理、法則に調和した生き方であり、恨みや憎みは自然の摂理、法則に
逆行した生き方であると言えます。

愛に生きれば、幸せと健康と平和を生み、恨みや憎みは不幸と病気と争いを生みます。
実に単純明快な大自然の法則ですが、それがなかなか出来ないのが人の常。

では、恨みや憎むという行為が私たちにどういうものをもたらすのか
具体的に説明します。

まず恨みや憎む心を抱くと、ストレスを生み体の調和を乱します。それによって
様々な病気の原因となります。またケガもしやすくなりますし、心の余裕が
なくなり、事故なども起こしやすくなります。

次に恨みや憎みが負のカルマを生み、いつか自らも恨まれ憎まれる事になるでしょう。

そしてその思念は心の波長を下げ、それに相応しい縁を引き寄せます。同じように人に
恨みを持つような人と縁になり、トラブルや良くない事を招きやすくなります。
その縁は人だけでなく土地や行く場所にも影響します。たとえば引っ越しをしたら
悪いエネルギーの場所に住む事になってしまうなど。

また、その低く、じめじめした心の波長は生きた人間だけでなく、同じような恨みや
憎みを持ちこの世を去った未浄化霊に憑依される事にもなります。

それによって、運の悪い事ばかりおこるようになったり、体調を崩すようになったり
時にはその憑依霊によってその恨みの念が増幅され、間違いを犯してしまう危険性
もはらんでいます。

どうですか、あなたはこれでも人を恨んだり、憎みたいと思いますか?私には
そんな恐ろしい事にはなりたくないし、自分にとってマイナスでしかありませんから
絶対に恨みたくありません。

でも、何か理不尽な思いをさせられた時などは誰でも人を憎む気持ちが湧いてくる
ものです。そういう時こそ、その人の人間性が重要になってきます。

相手を理解したり、許したり、それを自分の事として謙虚に受け止められる感性。
何故なら、そういう恨みを持つような相手と縁になる事もまた自分の心の波長が
招いているとも言えるからです。そういう感性を持てるかはどうかはその人が
どれだけ本当の愛を理解できているか、どれだけ自然の法則を理解しているかに
かかっています。それが出来れば恨みは消え、あなたは一歩も二歩も自分を
成長させる事が可能になるでしょう。

01/26

愛と言う言葉がありますが、愛にも色々あります。恋愛や友達愛、家族愛
など。みんな愛と言う言葉を気軽に使う為、その意味も軽くとられがちですが
実は本当の愛を実践する事はなかなか簡単な事ではありません。

本当の愛とは利己的なものや自己愛を全く含まずにただひたすらに人を思いやる
心、人の為になりたいと思う心を言います。見返りを期待する愛も愛とは
言えません。愛は与えるだけ。また愛は押し売りしない。自慢もしないもの。

人間はどんなカタチの愛にしろ、ついそこに利己的な愛が混じってしまうものです。
恋愛だと自分の都合の良い愛であったり、自分の寂しさをうめる為の愛であったり   
自分の欲求を満たす為の愛だったりただ単に動物的な本能である場合もあります。
それを愛だ、愛だと言っても実はそれは真の愛とは言えないものなのです。

家族や子供に対する愛も同じで一心に思う愛の中にも、そこに利己的な本来ならば
愛と呼べない「偽物の愛が」まじってしまう事があります。親の理想を満たすだけの
愛であったり、子供を私物化する愛であったりと。

他人に対しても自分では愛だと思っていても、そこには良く思われたいという思い
があったり、地位や名声の為だったりと自分でも気付いていない場合もあります。

自分の愛が本当の愛かどうかを見極めるコツは、それが真の愛ならば必ず
相手から愛として帰ってきます。物事がうまくいかないという時は愛だと思っても
自分の中に利己的な愛が混じっていると考えて間違いありません。

また言葉で愛を語るのは簡単ですが、愛には行動がともなっていなければ愛とは
呼べません。愛は実践してこそ初めて愛と呼べる性質のものだからです。

でも愛を実践する為には真の愛とはどういうものなのかを定義できていなければ
なりません。では、どういうものが愛と呼べるのか。それは、本当の意味で
相手の為になっているか、そしてそれが相手の霊性(人間性)の向上を一心に
思うものであるか。それが大事。優しくする事、何でもしてあげる事、依存させる
だけのものは、本当の優しさや愛ではないという事です。相手を思えばこそ時には
厳しい言葉もかけなければならない事もあるという事です。

とはいえ、本当の愛を理解し実践する事は容易な事ではありません。なかなか出来る
事ではないです。その道も地道で根気のいるものです。なぜなら、その愛を学び
実践できる感性を身につけていく事こそが人生の最大の目的であり、この世に
生をうける意味であるからです。

本当の愛を知る近道は無く、それには長く豊富な人生経験が必要。特に苦しい思い
悲しい思い、辛い思いは必須です。病気の人の苦しみがわかり、愛を注げるように
なるには自分も同じような経験が必要。いじめられている人の本当の気持ちになる
ためにも同じような体験が必要。このように人間は様々な喜怒哀楽を経験しながら
でしか霊性(人間性)を磨き、思いやりや愛を学ぶ事が出来ないのです。

実はそれこそがこの世に様々な苦難がある意味なのです。そしてすべての人が
少しでも本当の愛を学ぶ為にそのような場所に生まれてくるのです。言わば
「愛」はすべての人間にとっての人生での共通したテーマだと言えるでしょう。

ですから、あなたは生まれて来た時代、国、町、親、兄弟、性別これすべて
あなたが選んで生まれて来たのです。自分が愛を学ぶに最もふさわしい場所へと
自分の意思でこの世に降り立ったのです。

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